貧乏の基準

昨日の女性手帳の記事で「貧乏だっていいじゃん」と書いた。50過ぎの私が書いても読み手の年齢や環境で捉え方は違うんだろうな・・・ということで今日の記事。

私は当時2級過疎地の田舎生まれ。中学校から寄宿舎生活。家から中学校までは徒歩で2時間はかかった。何より冬は雪で通行できなかった。雪上車が2週間に一回くらい村まで行ってくれた。
そんなド田舎生まれで貧乏を経験した自分が「貧乏だって良いじゃないか!?」といっても他人には響かないんだろうな。でも金持ちが「貧乏だって・・・」というよりは説得力あるよね。お金が充分にないことを貧乏というなら、体験済みだから。困らなかったですよ。っていうか、ない物を欲しがったり悔しがったりしても来ないんだから考えるだけ時間の無駄です。それよりも何して遊ぶか?将来何をするか?ギターが欲しいな、就職したらまずステレオセット買おうかな、結婚したらどこに住もうかな?(流石にこのド田舎に嫁が来るとは100%思って居なかった)、子供には何をさせようかな?(高校卒業するまで男が産まれたら一流陸上選手に育てるつもりだった。星一徹のように)
なんてことをいつも考えていた。貧乏という事に何の引け目も悲しみもなかった。

って、ここまで書くと「今ある程度の生活が出来るようになった貴方が昔のような生活に戻れますか?」と聞いてくるでしょう、きっと。原発問題でも良く出てくる問だ。
私の答えは「嫌だけど仕方ないでしょう」です。嫌だけど は言いたくないけど頭の中にはあるので口に出ちゃうでしょうね。嫌ですよそりゃ。だけど嫌だで済むほど問題は簡単じゃないことも分ります。自分の欲求実現とわがままの区別はつけなければいけません。たとえそれが「お国のミステイク」が原因だったとしても。。。出来ることなんだから我慢しましょうということだけです。我慢した生活の中でも幸福は見つかるはずだという事を知っているから。。。

生活レベル という言葉。嫌いです。そりゃあるかも知れないし無いかも知れない名詞です。生きることって他人とか何かとの比較じゃないと思うんです。レベルとは比較対象物があってそれより上とか下とか云う意味ですよね。人生とか生活に上下は当たり前でしょ!?当たり前のことを「生活レベルを下げたくない」とか云うこと自体がナンセンスです。「死にたくない」「老いたくない」と云ってるに等しいです。私がド田舎に生まれたこと、生活が苦しいことをオカミに訴えることなど高校生になっても考えもつきませんでした。


表題の「貧乏の基準」ですが、だからこれは在りません。
あえてカッコウつけていうなら「貴方の心の中に貧乏があるだけです」